「超B級アーカイブ」の復活! そして「キューピーくん、久しぶりだったね」
- 2021.03.03
- 玉木朗の超B級アーカイブ
先月の2月12日に拙書「超B級アーカイブ」が何と8年ぶりに復活し、とうとう電子書籍として発刊される事になったのはお知らせした通りです。何だかスゴく嬉しい反面ちょっとだけ照れ臭いかな。そして色々な事も思い出したよ。
慣れない作文のせいで書き直しを繰り返し、締め切り直前の頃には連日明け方になってしまった事も有ったし、綿谷画伯といであつしくんとの鼎談はとても楽しかった。
また、発売したと同時に社員の人数分を購入して頂いた取引先の社長さんがいらっしゃってビックリしたり感謝したり、近隣の書店さんでは手作りのポップも作って頂いたり、現在はお偉いさんになってしまった昔からの友人に編集長をしている雑誌でご紹介して頂いたり・・・と本当に色々な方に応援して頂いた。
それで久しぶりにその「超B級アーカイブ」をあらためてパラパラと眺めていたら出て来たのが、あの元SHIPSのファッション番長と言われた中澤芳之くんとの対談ページ。この本の10ページにわたる対談企画の為にボク達のホームタウン「アメ横」にわざわざ来てくれて出演してくれた時の元気な姿とそして中澤くんスタイルのパワートークが見事に蘇っていた。
そうだったよ、何だかんだと長い時間いっぱい話したよねェ・・・懐かしいバラックの頃の「る~ふ」や「ミウラ」の事、当時の洋服や靴の話し。そしていつも夕方になると、どこからとも無く、あのトライアングルゾーン?に集まって来ていた取り巻きの連中の話しだとかで最高に盛り上がったよね。
そして、あの時に一番笑ったのが実は文字にする事が出来なかった話題だったり・・・。
中澤くんの事を初めて認識したのはたぶんボクが、キャシディの八木沢さんと入れ替わってアメ横の「る~ふ」に入る事になった76年の暮近くか翌年の始めくらいだったと思う。
初日に先輩や同僚と顔合わせをしている時に「今日は来てないけど高校生のバイトでキューピーって言うのが居て・・・」と聞かされ、それが中澤くんの事だった。後に彼がバイトに来た日にその顔を見てなるほど・・・と思った。
ボクが入った時は店舗の退社予定のスタッフが日数消化の為まだ勤務していたのでボクは暫くの間「る~ふ」の事務所で卸業務の発送や納品などの手伝いをしていて、週1か週2くらいのシフトで店舗に入って居た。だから実のところ最初、中澤君とは毎日一緒だったワケでは無かったんだよね。
でも一緒の時は商品の値段をボクが接客する横で、こっそり教えてくれたり(当時はまだ商品に値札を付けていなくてスタッフはみんな、それぞれの値段を暗記していた。)立体パズルのようにきちんと決めた順番通りに什器をセンチ単位で収納しながら閉店する方法だとか、開閉の調子が悪いシャッターを一挙に下ろすコツだとかを教えてくれた。
中澤くんはとりわけケリーグリーン(明るいグリーン)というカラーがお気に入りで、まだ高校生なのに良くも悪くも当時のアメ横ファッションのバタ臭さを身に付けて居たように思う。
そうこうしている間にボクもようやく店舗のスタッフとして連日シフトに入るようになった頃だったかな?ある時、中澤くんが隣の「ミウラ」に欠員が有るから、そっちにバイトに行くと言って「ミウラ」に入る事になった。そして暫く「ミウラ」で働いていたと思ったら、その後「ミウラ」も辞めてどこか他のショップに行ったみたいで、ある時期から全く顔を見なくなってしまったんだよね。
そしたら、いつだったか中澤くんはまた「ミウラ」に戻って今は渋谷(ミウラ&サンズ)に居るよって確か誰かが教えてくれたんだと思った。
それからは時々アメ横にも来たりしていて「どう?渋谷は」なんて聞くと「たまにはフィッシュコロン(アメ横独特の魚介類や干物の混じった匂いの事で当時ボク達はそう呼んでいた)を全身に浴びないと元気出ないっすよ!」なんて冗談を言ったりしていた。
80年代に入るとボク達の居たバラックの取り壊しが決まり、それぞれの店舗はガード下に新設された「アメ横プラザ」というエリアにバラバラと移転する事になった。
そしてその後82年かな?センタービルが出来、「る~ふ」と「ミウラ」の場所が離れてしまった事も有って何となく疎遠になり、その後84年頃ボクが「る~ふ」を辞めてアメ横を離れてからは何度か渋谷や銀座で偶然会ったりする事は有っても軽く立ち話しをする程度で本当にご無沙汰をする事になってしまった。
その後ボクが輸入商社に入りロサンゼルスに駐在していた87年頃、日本のファッション誌を取り寄せて見ているとSHIPSのプレスとして彼を見かける事が随分増えたので中澤くんはどんどん有名人になっているんだなァと海の向こうから感心していたんだよ。
しばらくしてボクが帰国したら日本は平成の時代になっていたんだけど中澤くんと一度渋谷ですれ違った事が有って、軽く会話はしたものの何だか周りにそれっぽいヒトがいっぱい居て、彼を取り巻くメディアの人達やタレントさん等との交流を少し羨ましく思ったりもしていた。
多分この頃の彼を良く知るヒト達は業界の中に大勢いると思うんだけれど彼はSHIPSの顔役としてどんどん知られるようになり、いつしかファッション番長と呼ばれるようになって、そしていつの間にかセレクト業界を代表するような存在になって行った。
だけど、ボクからはどんどんと遠い存在になり始めているような気がしていた。
その後中澤くんと交流が再開する事になったのは、ボクが今のショップを始めて2~3年程経った頃の「メンズクラブ」の取材記事がきっかけだった。ちょうどBARACUTA♯G-9に関する取材を受け綿谷画伯にイラストの記事に仕立ててもらい有難く掲載して頂いたのだけど、何と掲載誌を見てビックリしたのは次のページに中澤くんが「達人の履歴書」と称した特集記事を組んでもらっていた事だった。
それで久しぶりに中澤くんに「今、発売しているメンクラを見て・・・」と連絡を取ってみたら、昔と全然変わらないスタンスのまま話しが盛り上がり「一度メシでもしましょう!」となった。
その後は、たまに食事をしたり、SHIPSさんの本社に遊びに行ったりもしたよ。(その時には、1階のロビーで話していて、ついついボクが中澤くんの事を昔からのニックネームで呼ぶから、後で知り合いの社員の方から「うちの会社の中では中澤部長の事をニックネームで呼ばれるのは、ちょっと、ほら・・・ね・・・」言われてしまった事が有った。)
そして時々当店に来て買い物をしてもらったり、また業界の重鎮達の集まりで一緒になったり、当店の10周年記念のパーティーに来てもらったり、RED WINGさんの企画ムックに一緒に出演させてもらったりと、何か有るたびに彼の顔の広さにあらためて驚くと同時に本当にいつも楽しく交流させて頂いていた。
そして、ある日突然とても悲しい訃報が届いたのが2017年の3月3日だった。そう3月3日は本当に特別な日になってしまった。
下の画像は後日行われた「お別れの会」の際に頂いたメモリアル・フォトブックで表紙は綿谷画伯だよ。そして秀逸なデザインのバンダナ!最後までやる事全部がカッコ良すぎるんだよ。
「キューピーくん」こと中澤くんが亡くなってから早くも4年が経ってしまったけど、セレクト業界の本当のカッコ良さをいつも体現してくれていた彼の存在はアタマひとつ抜けていたと今でも思っている。本当にグダグダのカジュアルスタイルからバリっとしたタイドアップスタイルまで両方向にハイレベルなスタイリングを彼は出来たと思うからね。
おそらくセレクト業界の中にお仕事の上手なヒトは、きっと沢山居ると思う。だけど今、誰から見ても本当にカッコいいと言わせてしまうヒトは果たして何人居るんだろう。
やっぱりセレクトの業界は基本的にカッコ良くないとダメだと思うんだよ。だって商品の形をした言わば「夢」を売っているハズなんだから。
中澤芳之くんの事を業界のみんなは絶対に忘れないで欲しいと思う・・・
最後に、中澤くんが2016年の暮に書き残してくれていたものをここに紹介するね。
(一部注釈の必要な部分は補足させて頂きました。)
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先月の上海出張、上海ファッションウィークとも重なりソレナリ(?)の盛り上がり“中国の他の都市ではない、ファッションの上海”を知りワクワクして帰国。目抜き通りの一等地にひしめくエグゼクティブブランドやファストファッションは,当然当たり前なのだが「こんなところにこんな店が!?」的なインディーズ系、セレクト系のショップ、ブランドを何件か紹介して貰う事が出来た。
これがワクワクした理由だ。
だって僕の中では、ついこの前まで人民服のイメージですからね。それも皆さんお揃いでね。それが大体40年前です。
帰国後、郵便物を整理しているなかで「WHAT’S NEXT?」-TOKYO CULTURE STORY-presented by BEAMSが届いていた。
今年40周年を迎えたBEAMSさんの40周年企画のひとつのムック本で僭越ながら寄稿させて頂いたものが届いていたのだ。
昨年はSHIPSも40周年を迎え米国ブランドの企画モノなど多彩に展開していた。
にわかに1976年アタリは、昨今のアメカジブームに繋がる“ファッションの黒船到来時代”だったかな?。な〜んてざっくりと考えて本棚を観たら「ボク達の超B級アーカイブ」
(以下、僕たち…)2013年光文社刊であった。
この本は、三軒茶屋のセレクトショップ「SEPTIS」オーナー玉木 朗氏のショップブログからスピンアウトした1970年代〜1980年代のアメ横が舞台の“ファッションの黒船到来時代”で僕自身も同時期にアメ横と言う“現場”を体感したひとりとして玉木さんにお声がけ頂きお手伝いさせて頂いた一冊だ。
と言う訳で「WHATS NEXT」,「僕たち…」二誌を開くと同じ時代、同じファッションでも体感する場所や環境で捉え方や見え方が“微妙なクスッとした感じ”が面白かったので
【不定期・僕のファッション黒船は、何処から来て?何処へ向かう?】
時代背景を折り込みつつ私的話をしようと思う。
「WHATS NEXT」,「僕たち…」を参考にさせて頂く事をご了承頂き、昔の与太話なので間違いも多々あるでしょうがこちらもご了承くださいね。
【不定期・僕のファッション黒船は、何処から来て?何処へ向かう?】 Vol.1
雑誌POPEYEの創刊が1976年、玉木さんが上京したのが1974年、僕が服や洋楽などに興味を持った“チュウイチ”が1972年。
“チュウイチ”って6年間の“学区”村人が“中学”と言う街に出て“他区”から来た村人達の情報収集で一気に世界が広がるんですよね(笑)。
半ズボンから長ズボンに代わる時代、「長ズボン?、何でも良いよ」なんて母親の言いなりで着ていてはダサイことに気づくわけです。だって下手したら兄弟、親戚のお下がりになる事もありますから。
そこからは転がる石のように情報収集してカッコイイを探す、探す。
でもお金も当然無いから頼るは、親からの公的資金なワケでまずは、学生服です。
なので僕はボンタン、ズンドウ系の学ラン派よりIVYファッション系を選びました。理由は、学校帰りに気軽に遊びに行ける事と周りの大筋な流れもそっち方向になっていたし。
黒のコットンパンツとOXのボタンダウンを夏~秋の中学の制服にすべく同じ志を持った友人と原宿、六本木、水道橋、横須賀、福生などなど、結果実家から徒歩3分のアメ横に一番通いパンツは、「まるびし」でMr,hix(?)(注1)のゴムベルト付き棉ポリのパンツを購入。
ベルト付きパンツは、当時多くブランドが展開していたがあくまでベルトは、オマケなので2、3回使うとビロ〜ンと延びる粗悪品、でもカラーリングにアメリカを感じちゃう(笑)。
公立の学生には“黒”、日暮里のS院生は、“グレー”、青山の“A院生”には”ネイビー“で人気のレングスは、取り合いだった。
BDシャツは、ヤマニさんの近くのお店(店名失念)(注2)でマンシングの鹿の子ポロを購入。強引に「白のボタンダウン」と言い通して公的資金にて購入に成功した。
もちろん白ボディーに紺のペンギン刺繍だ。
同時期の原宿にはまだBEAMSさんはオープンしていなく「WHATS NEXT」の巻頭で触れているようにオリンピック後の新しい街であり、在住する外国人も多くそんな中に八百屋、魚屋などが程よく混在しながらも整理された静かでアメ横とは、全く違う文化的なにおいのする街だった。
セントラルアパートメントをランドマークに”チュウイチ“の僕らにはまだ眩しい街だったけどポツポツと在住している外人が持っている自転車、スケボー、ローラースケートなどファッション以外のグッズ類が凄く気になっていた。
【つづく】
【不定期・僕のファッション黒船は、何処から来て?何処へ向かう?】Vol.2 [1972~1974年くらい??]
年末と言えばアメ横!、昔から年末になるとアメ横の買い出しの映像がTVで流れるが僕が想い出すのはシャンブレーシャツと杢グレーのスエットシャツだな。
1970年代中期の事、魚屋で働くシゲちゃん(注3)は、半年に一度MIURAでOshKoshのシャンブレーシャツを一度に5〜6枚買っていつもクリーニングに出して毎日パリパリの糊の効いたシャンブレーシャツで店頭に立つ。
独身で無骨な男は、アイロン掛けなどはしないし下着以外は、全部クリーニング屋さん行きなのです。
クリーニング特有の糊で襟がすり切れやすく小さな綻びが出た頃が買い替えのとき。
サドルギャリソンベルトも買ってくる、思えばギャリソンベルトもずいぶん買って貰った。
何度かデニムやワーク系パンツもお勧めするがボトムスは履きなれた作業着系の日本のパンツが良いようで仕事でカスレてしまった声で「俺には似合わねえーヨ!」と言っていた。
反面、ヘルスニットやラッセルの杢スエット、特にポリエステルが5%か8%のラッセルがお気に入りだった。
OshKoshをちゃんとワークシャツとして着ているのだがクリーニングに出すところはご愛嬌です。
僕らはシャンブレーシャツをファッションアイテムとして販売する訳で当時はOshKosh 他にELY Washington D.C. がMIURAのラインナップでBIG MACは、後期だったかな。
インポートモノ、いや輸入品に飢えていて金の無い僕らにとってシャンブレーシャツやグレー杢の無地スエット、T-SHIRTSなどのワークウエア、ユニフォーム的なモノは他のブランド系のモノと比べると安価で比較的購入し易かった。
シャンブレーシャツ、グレー杢のスエットは、今で言うテッパン、
もちろん今でも。
シャンブレー、着込むほど馴染むアノ独特な素材感大好き。
でも残念ながら今のシャンブレー生地って僕のなかでいまひとつが多くてたまに見つけると生地が良くてもデザインがNGとか、その逆とか。
だから良いものに出会った時は即買いかな。
バートピューリツアーのシャンブレーBDシャツが一番好きだった。
反面、杢のスエットは、当時も今も安価で良いものが比較的多く見受けられるので安心です。
当時アメ横でシャンブレーシャツと杢スエットといえば魚屋のシゲちゃん、その次にトライアングルゾーンの松下屋,通称「エッチ屋」のツネちゃん(注4)。
杢スエットのネックから出るシャツの襟を自分で指差して「今日はELYなんだよね〜」とかベージュの646(注5)の股間をプリプリにしながら言っていた。
当時、レコードの並行輸入もしていたツネちゃんは、レコードジャケットやライナーノーツのアーティスト写真を観ながらアーティストが着用しているウエアーやシューズなんかを良く説明してくれたものだ。
でなぜ、仲間うちでエッチ屋と呼ばれるか?、ツネちゃんがエッチだから、いいえ違います。
元々,湯島の歓楽街で大人のおもちゃ屋を営むご夫妻の出店が「る〜ふ」の前にあったのだけど「MIUARA」「る〜ふ」を筆頭に「丸菱」(注6)「守屋」「ハナカワ」など輸入衣料品店が売れる!!、と気づいたご夫婦は、なんのためらいも無く大人のおもちゃ屋の半分をインポートショップにしてしまうんですね〜(笑)。
でも元々ニットジャケットに角度(45度、通称シゴマル)のついた銀縁メガネの叔父さんが小声で「いい写真有るよ」とカーテンの奥に誘って商売している人しか居ないから元アメ横の某ショップのスタッフだったツネちゃん探して雇い入れたわけです。
エッチ屋で洋服の事をしゃんと説明出来る人はツネちゃんだけだったなあ。
あと出しジャンケンみたいに出来たお店だから商品ラインナップも苦労していたなあ、MIURAでIZODが売れまくり、丸菱でフレンチラコステが売れだすと松下屋さんもワニブランドを探すワケです。で二匹のワニが重なったF◯CKラコなんてウイットの効いたポロシャツを扱ったり。
でも2〜3年落ちのマイティーマックやピーターストーム、キャンプ7やクラスファイブなど通好みなものもあってトップシーズンに買いのがしたモノがちょっと安価で買える店でしたね。
大人のおもちゃ屋とセレクトショップって今考えたら凄いですね!!
今やったら流行るかも。
まあ冗談は別としてアメ横の年末は、シャンブレーシャツと杢グレーのスエットシャツ、荒巻鮭と大人のおもちゃを想い出すのでした。
【つづく】
加筆の為、大晦日のアップになってしまった(汗)。
良いお年を。
2016年12月31日
- (注1)たぶんHICK’Sのプレスの効いたコッパンの事。
- (注2)マンシングを専門的に取り扱っていた「丸高商店」の事。
- (注3)「る~ふ」「ミウラ」の所からすぐ表に出た角っこの魚屋さんの名物店員だった。
- (注4)ほぼ1年中FREEMANのデザートブーツで過ごす、●林●彦先輩の事。
- (注5)LEVI’Sのコーデュロイのベルボトムの事。
- (注6)「マルビシ」元はPXからの流出品が豊富に入手出来た伝説のショップだった。
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